小池美由の距離感

7月6日、新木場スタジオコーストで行われた「アイドル横丁夏まつり」に行ってきた。TEMPURA KIDZ、GALETTe、吉川友おっPサンバもよかったが、小池美由のことをようやく語ろうと思う。
というか、参照すべき小池美由論って誰かもう語っているでしょう。それ、教えて下さい。


小池美由というアイドルの特徴として、そのMCにおけるファンとのコミュニケーションのあり方というか、場の掌握の仕方が挙げられる。たとえば、曲終わりには決めポーズのあとに自ら拍手をすることで、「ここは拍手をするタイミングですよ」、ということを示し、実際に拍手をさせる。あるいは、小池のチラシを紙飛行機にして飛ばして、運よく受け取ったファンに対して、「みんなでおめでとーを言いましょう、せーの、(おめでとー!)」という流れを作りだす。とにかく、小池はよくしゃべるし、よくしゃべれるし、よく声を張っている。そして主導権を握る。そのやり方は、保育園の先生のようにも見えるが、子供が分かるコミュニケーションは誰にでも通じる、ということに思いをいたせば、小池のこのやり方は初見の観客にもやさしい方法だということができる。実際、このイベントは小池のファンではない人も多く来たわけだが、それでもその場をしっかりと掌握してしまう小池の能力は目を見張るものがあった。
もう一つ注目すべきは、小池は基本的に、ファンの言葉に呼応してMCの方向性を変えるということをしないように見えること。つまり、小池のMCは対話ではない。ファンが勝手に叫んでいる時、小池は、「どーした?」とか「いま小池がしゃべる番」と言って、あくまでファンの声に反応しながらも、主導権は渡さない。その意味で、小池はファンの声に動揺しない。あくまで、我が道を行っている。そればかりか、小池は望ましいファンの反応を先取りして自ら演じてしまっている。
たとえば、この動画(非公式ですが)http://www.youtube.com/watch?v=ccJbT_itCgQ では、4分以降から始まるMCにて、この会場に来たのは初めてかという問いかけに対する観客からの反応「はじめてー!」を、自ら先取りしてしまう(「エア観客」を創り出す)。この、自分の手を使った他者の創出という手法は、自分にとってはオードリーが2008年のM-1決勝で行った選挙演説のネタが記憶に残っている(You Tubeで「オードリー 選挙演説」でもしかしたら出てきたりするかもしれない)。いやもちろん、「他者がいると見なす」ということは、落語等の古典芸能でも必要不可欠の手法であり、人数が限定的な演劇(演じること一般)において当然の技法である。
しかしあえてアイドルの特殊性を指摘するならば、演劇作品に観客を巻き込むのが現代アイドルの特徴である。演劇の表現自体に観客が取り込まれる。アイドルの楽曲が合いの手・コールの類が入りやすいように構成されているのも、またアイドルファンの服装(特に色)やペンライト(キンブレ)が演出の一部となってしまうことを見てもよいが、いずれにしても、そこでは演者と観客が明確に二分されていない。観客もまた役者なのだ。


では小池の面白いところはどこかというと、そうやって曖昧化した演者と観客によって成立する「演劇」を、もう一度演者の側に引き戻そうとしているかに見えるところだ。つまり、MCを「エア観客」とのやりとりも含めて行うことで、「アイドル演劇」を成立させるが、「エア観客」はもちろんアイドル自身に都合のよい観客であり、そのことで小池は常に主導権をもって演じていくことができる。ただし重要なことは、このことが実際の観客を置いてけぼりにすることはないということである。あくまで現代のライブアイドルの作法にしたがっているため、また時にはファンの声に対しても反応する(もちろん主導権を握ったままで)ために、けっしてないがしろにされている感じがしないのだ。
こうしたあり方は、ソロアイドルの最適解の一つであると感じている。ソロアイドルの欠点は、メンバー間の関係性というおいしいネタが発生しないとか、ダンスにおけるフォーメーションがないとか、ハモりとか歌声の多様性がないとか、数えだせばキリがない。全て一人で背負わなければならないのだから、歌もダンスもしゃべりもなるべくうまくなければならないので、当然グループアイドルよりも超越性(カリスマ的要素)が必要になる。しかし、一人なので当然メンバー間でのしゃべりが発生しない以上、観客との関係性を何らかの形でより強く作らなければならない。つまり超越性(それは「遠さ」の感覚を伴う)を保ちながらも、観客との関係性を作る(それは普通観客との距離を近くするベクトルである)必要がある。このジレンマ。
小池は「エア観客」という手法で、この問題を回避しているのではないか。「エア観客」の導入によって、あくまでMCの主導権は渡さず(そして観客とのグダグダな馴れ合いを回避する)、その意味で小池の観客に対する優位性は現場において明らかである。(「タメ口」「呼び捨て」といったしゃべり方もまた、絶妙な距離感の創出に一役買っていることは間違いない。)
しかし一方で、観客のガヤも時には拾われるので、小池とファンは決して遠い関係性にとどまらない。その象徴とも言えるのが、最後の曲前のフリ(「次が最後の曲です!」)に対する「やったー!」という返しである(参考:以下の動画の1:05以降 http://www.youtube.com/watch?v=iKIJhE41CaM)。ここで初めて、観客ははっきりと小池に反旗を翻すそぶりを見せる。基底としてある小池の優位性を前提として、ファンが時に能動性を発揮する。このくらいの安心感がちょうどいいのである。


こうした関係性、距離感の操作は、twitterでも見ることができる。小池は7月13日現在、小池関係のアカウント2つをフォローするのみで、ファンに対するフォロー返しをしないし、筆者が見る限り、ファンのリプライに対して応えることも一切ない。ただ他愛もないことを一方的につぶやいているだけである(もちろんここでは小池個人の意志を問題にしているのではなく、twitterの利用の仕方から小池美由というアイドルのスタンスを読み取るのである)。Twitterという誰もがアクセスしやすい、親しみやすいメディアで、しかしファンとは距離を取る。近そうで遠そうで、という関係性の創出。
twitterの利用の仕方、あるいはfacebookとかブログといった個人で発信できるメディアの利用の仕方(利用しているかしていないかも含めて)を見るだけでも、そのアイドルがファンとどのような距離感を創り、また関係を結ぼうとしているかが見えてくるだろう。)


ちなみに、テレビとの関連性で言えば、「ゴッドタン」を見た人は分かるように、小池の「エア観客」という手法はテレビにもうまく適応できている。観客の反応自体をアイドル自身の表現に取り込む「ライブアイドル」は、テレビに出演する際に必ずしもファンと一緒の出演とはならず、したがってアイドルの表現として十分ではない(しばしば何か寒くなってしまう)、という欠点を抱えることになる。しかし小池は常に「エア観客」を携えているので、ライブ会場でのパフォーマンスと、テレビにおけるパフォーマンスのギャップを小さくすることができるのだ。


以上を考える時、小池美由はプロのアイドルとしてすごい、と思う。距離感をうまく操作しながら、ファンを魅了する。たった数回行っただけ(そして接触イベの経験なし)でもこんな感慨であるから、小池の常連さんは小池のすごさをもっともっと知っていることだろう。


もっと小池の事知りたいな。
けどどうしたらいいんだろう?