さやわか「一〇年代文化論」感想

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

さやわか「一〇年代文化論」を読んだ。考えたことをつらつらと。
本書は、「残念」をキーワードに、現代文化を論じるわけだが、「残念」の用法が2007年あたりを境に変わってきたことに文化の転換を見出している。
アイドルに関して言えば、2007年と言えば、モーニング娘。を中心とするハロプロ一強時代が終わりを告げ、PerfumeAKB48といったアイドルが人気を獲得していく過程でもある。本書ではPerfumeについて大きく取り上げ、彼女たちに見られる、「ステージ上と普段のギャップ」を両方見せてしまう、普段という「残念」な部分さえも見せてしまう、という自由なイメージを2007年以降のアイドルシーンの新しい風潮としている。
以後、キャラ芸人についての事例も取り上げながら、残念を「キャラ」として提示できるようになったという議論がなされている。これについてぼくはどうしても思い出してしまうことがある。


自分は、アイドルの実存をめぐる問題について、表層に現れるアイドルイメージを複数確保することで、アイドルの実存的問題を回避することを検討してきた(参考「複相化戦略」http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080811)。たとえばモーニング娘。だった久住小春が、アニメキャラである月島きらりという役柄を演じる時、「月島きらり」としての現れと、アイドル久住小春としての現れがお互いを相対化し、「素の久住小春(のようなもの)」への視線を発生させづらくすることで、アイドルの素(のようなもの)の部分を守ることができるのではないか、というように。こうすることで、肥大化してしまうアイドルのイメージと、アイドルである生身の人間とのギャップに苦しむことを回避できるかもしれない。

逆に、アイドルを本名のままで(一つの名前やキャラだけで)活動させるリスクをぼくは危惧していた。そしてその一番の犠牲者として加護亜依をどうしても思い浮かべずにはいられないのだ。加護亜依は肥大化するイメージを自分の身に引き受けすぎた、というのが自分の理解だ。
(参考:ケータイ小説「過誤・愛」 http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080409/1207772167 これは2度の喫煙騒動後に加護亜依が応じたインタビューを聞いて感じたことを書いた記事である。ところで、今回の記事では追究できなかったが、ケータイ小説と「残念」の文化の折り合いの悪さみたいのは感じていて、Wikipediaくらいでしか調べていないが、2007年あたりで盛り上がりを見せたケータイ小説と、その後の「残念」文化の広がりには、文化的な風潮の移り変わりを読み取ることができるだろうか。)


さて、2007年以降のアイドルは、こういった問題をするりと回避していっているように思う。簡単に言えば、「素」がキャラ化しているということで、また別の言い方をすれば、「素」のようなものも含めてキャラを横の関係として捉えていくということだ。あるいは、アイドルがキャラを自分でコントロールできるようになってきたということも言える。これは多分にブログやSNSといった個人で発信できるメディアが発達したことも大きい。
今振り返れば、ハロプロ一強時代は、アイドルイメージを強くテレビをはじめとするマスメディアに依存していたことは間違いない。したがって、アイドルイメージをアイドル自身がコントロールすることは難しかった。いま、個人で発信できるメディアの発達と、「会いに行けるアイドル」という言葉で分かるように現場というものがより重視されるようになったアイドルシーンにおいて、アイドルが自身のイメージ付けに主体的にコミットできるようになっている。そしてそれに長けていることが、人気を獲得する一つの重要な条件になってもいるだろう。
もう一度確認すると、アイドルがテレビ等のマスメディアが肥大化させる自己イメージと「素」とのギャップによって実存的な問題を抱える時代から、主にネットによる小さいメディアを駆使しながら、アイドルが主体的にそのイメージ付けにコミットしつつサバイブしていく時代になった。ざっくりと言うならこのような変化を指摘できる。
ところで、「素」の部分までをキャラ化するというのは、なんだか矛盾した言い方のように思えるかもしれない。しかしいまや、アイドルの「素」と「素のキャラ」は大きく乖離するものではなく、緩やかにつながったものとして捉えていくことができる(というかもう、「素」という言葉を大変使いにくくなっていることさえ感じる)。本書において引用されているももクロのインタビューを読んでいても分かるし、たとえば香月孝史「「アイドル」の読み方」(青弓社)の第4章「アイドルの「虚」と「実」を問い直す」も参考になる。これは我々のメディア利用を振り返ってみても自然に理解ができることで、twitterをやっている自分は、他の社会人としてのキャラとか、日常のキャラとは違うとしても、自然につながっていて、特に無理して何かを振舞っているわけではない。逆に無理したキャラ作りこそ、実存的な問題を呼び起こして、長持ちしない原因になってしまうだろう。

ハロプロに話題を移すなら、キャラの戦略的利用でのしあがったのが道重さゆみ嗣永桃子だと思われる。道重のことを話すなら、道重が毒舌キャラとナルシストキャラでブレークするのが2009年くらいである。自分を一番かわいいと思っている「残念」なキャラを作り上げることで知名度を上げ、『週刊文春』(文藝春秋)「女が嫌いな女」ランキングで2009年に10位という好結果(?)を勝ち取る。「残念」なキャラを作るのは、一長一短なところがあると思われる。短所は、それがそのまま道重の性格だと理解され、嫌われやすいということ。長所は、それでも自らのイメージをある程度自分でコントロールでき、「本当は〜なんじゃないか」という裏読みの視線を回避しやすいということである。


最近自分が現場に足を運んでいる舞台「プレゼント◆5」について考える。「プレゼント◆5」はアイドルグループをモチーフにした舞台で、物語上で存在するアイドルグループ「プレゼント◆5」とか「三日月」というのがいて、それを役者が演じている。いままで自分は、「三日月」のメンバー青羽要(あおばかなめ)は、役者である畠山遼によって演じられている、という縦のラインでイメージしていた。つまり「Aは、ほんとうはB」というように。でも、畠山遼さんのブログを読めば、それはそれでとても意図的に自己イメージを作っているところもある。そうであれば、いままで考えてきたことも踏まえると、全てのキャラを横のラインで捉えていく、という見方も可能かもしれない。つまりは、「CとかDとかいろいろ演じているけれど、根本にはEがある」という人間像・人格像ではなくて、「常にFとかGとかHというように、キャラを自然に使い分けていく」というイメージ。物理的な世界だけでなく、ネット上にも多様なチャンネルを持っている現代の人間像は、自然にそうなってきているんだろうなあ。本の内容からは離れてきてしまったかもしれないが、そんなことを考えた。

参考:畠山遼 OFFICIAL BLOG(http://ameblo.jp/hatakeyama-ryo/entry-11839776234.html
↑ここでは、畠山遼と青羽要は友達という設定になっている。演じる側と演じられる役柄が対等な関係性になっているのが面白い。



最後に。
昨日、Berryz工房の新曲のタイトルが発表され、オンエアされた。タイトルは「普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?」。ハロプロとしては決して多くはない、完全なる自己言及曲である。「アイドル10年やっちまったんだよ」と彼女たちが歌うとき、そこにはアイドルの長所も短所も味わい尽くしてそれを受け入れた「残念」という感性を感じ取ることができるだろう。
ちなみにアイドルの「残念」な自己言及曲の代表格であるアイドリング!!!「職業:アイドル。」がリリースされたのは2008年でしたね。



アイドル領域Vol.6

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アイドル批評誌『アイドル領域Vol.6』もよろしくね。
「プレゼント◆5」考察他、アイドルと「演じる」ことについての論考集。