ここ1年で出たアイドル論ベスト5

タイトルはほぼパクリです。
ここ1年でアイドル論の良書がたくさん出た、ということで、まとめて簡単なレビュー、というか、内容はあまり紹介せずに読んで考えたことをつらつらと。あと、順位はつけません。



IDOL DANCE!!!: 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい

IDOL DANCE!!!: 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい

『IDOL DANCE!!!』竹中夏海
面白い本である。竹中夏海が振り付けを考える際にどういったことを念頭に置いているのかということ自体が、興味深いアイドル論として読める。また、PASSPO☆メンバーとの座談会で、メンバーが自分をどう見せようと意識しているかという部分がとても現代アイドル的で、示唆に富んでいる。
さて。アイドルは総合芸術であるのだから、アイドルを歌、容姿、ダンス、その他メディア戦略といった諸要素の総体として捉えるのが正しい。よってアイドル現象をある単一の要素に分解したのち、あるひとつこそがアイドルにおいて最も重要なのだと論じることには無理がある。
…という前提を確認した上で、それでもなお、いま自分は、アイドルにおいて「ダンス」(あるいは身体の躍動)こそがアイドルにおいて重要なのではないか、という思いに囚われている。
アイドルのダンスについて、それが歌詞が表す意味をそのままなぞる場合(たとえば「スキ」という歌詞のところで胸の前で手を合わせてハートマークを作るとか)があり、またとりたてて一つの意味に回収できない躍動がある。つまり意味の伝達手段としての体の動き(媒体=メディアとしてのダンス)と、その動きそのもの(たとえば身体性とかと言ってもいい)を見せたい体の動きというものがある。これは詩的である。多分ダンスに携わる者にとって、ダンスが詩的である、ということは自明のことなのだろうと思う。ここで言う詩的というのは、その表象が伝達手段でもあり、また意味内容そのものでもあるという両義的存在、という意味である。
「好き」という言葉は意味を持つが、「スキスキスキスキスキ」となればもうそれは意味を超え出して、それそのものの存在感が迫ってくる。ダンスにおいても、ある振付けが何かの意味を持つとして、それを過剰に、あるいは繰り返し踊られることによって、意味を超えた(あるいは失った)身体性が我々を魅了するようになる。それらの歌詞やダンスは、何かを表現する主体というよりは、その存在そのものが表現であるような「アイドル」という存在をより際立たせるだろう。
この間見た、Dorothy Little Happyのダンスが忘れられない。




AKB商法とは何だったのか

AKB商法とは何だったのか

『AKB商法とは何だったのか』さやわか
アイドルを、主観から切り離されたところでどう論じるのか、という大きな問題がある。「好き嫌いが問題となる商売」であるアイドルを、好き嫌いとは離れたところでどう論じていくのか。本書は、(オリコン)チャートという、とりあえず客観的と見なせる指標を用いて、アイドル現象を読み解いていく。読んでいて気付くのは、さやわか氏が、アイドル論にしばしば向けられ、そして的を射たものであるような批判(あるいはそうでもない有象無象の批判や誤読)を、巧妙に回避するべく、慎重な手つきで論を進めていることである。アイドル論を書くならば、ここまで心配りをするか、またはまったく心配りをしないかのどちらかにするしかないのではないか、と思わせる。
本書終盤の、「DD」というあり方に言及して氏が論ずる倫理については、これから検討を深める必要がある。ともあれ、アイドルを考えたい人、ポップカルチャー一般を考えたい人にとっては必読の書。



アイドルのいる暮らし

アイドルのいる暮らし

『アイドルのいる暮らし』岡田康宏
昔、「アイドリアン超人伝説」という本があった。アイドルオタクは「超人」だったわけだが、確かに現在も、常人の域を超えているように思えるアイドルファンがいる。たとえば1日6現場を回すということが、どれだけの計画性と体力と気力を要するものなのか、自分はまだ知らない(1日5現場までは経験した)。
具体例としていろいろなアイドルファンの日常を知るのは面白い。どうしてそこまで熱を上げられるのか、うらやましさと、気持ち悪さとを感じて楽しむ本である。一方で、そうしたファンは、悲しく切ない思いを多く経験していたりもする。
あくまで「普通のファン」の熱狂の延長線上に彼らはいる。何かの拍子で、普通でない境地に達してしまっただけだ。それは、アイドル自身が、ちょっとした運と拍子でアイドルになってしまったのと同じようなものだろう。



ジャニ研!: ジャニーズ文化論

ジャニ研!: ジャニーズ文化論

『ジャニ研!:ジャニーズ文化論』大谷能生速水健朗・矢野利裕
アイドルを論じる時に、女性アイドルと男性アイドルを並べて論じることは極めて難しい上に、「アイドル」という言葉が、どちらかというと女性アイドルに寄ってしまうという事情もあって、アイドル論が男性アイドルを射程に入れることがなかなかできない事態が起きている。そんな中でこのジャニ研の試みは非常に貴重である。そもそも、アイドルの中でジャニーズが最も成功しているのは歴史としても規模としても間違いないのだから、アイドル論がジャニーズを無視してはいけない。アイドル論はとかく閉鎖的になりがちで、歴史的視座とか、近接した領域の文化との共通性といった広い視野からなかなか論じられてこなかった。女性アイドルのファンの立場からも、ジャニーズを考えることは、そうした閉鎖性を脱却する一つの契機になるかもしれない。
実は学術論文という形で、台湾や中国のファン文化についての研究は多くなされているが、それもファンの地域的な広がりをよく示している。あるいはネット上での、あくまで印象としての規模では、女性アイドルのファンよりも、ジャニーズのファンの方が、少なく見積もっても10倍以上の規模を持っているように思える(あるいはジャニヲタの方がアイドル語りに参入したがる傾向にある、という見方もできる)。たとえばちょっとジャニーズについての記事を書いたら、そのリンクを記したツイートがあっという間に100RTされたりする(女性アイドルのことを書いても全然RTされないのに)。
とにかく、女性アイドルのファン文化が成熟するためには、先達のジャニーズに学ぶことは多いだろう。もちろんそれと同時に、女性アイドルのファン文化と、男性アイドルのファン文化に、なぜ何らかの断絶があるのかということも考えなければならない。あらゆる趣味に性差はあるけれど、アイドルという趣味の場合、愛着の対象にも性があるのだから、その魅力に性的な何かも含まれているのは間違いない。
あ、それから、K-POPテニミュといった新しい潮流もある中で、「男性アイドル=ジャニーズ」という構図が必ずしも成立しなくなっているということも一応確認しておきます。
全然内容紹介してませんが、面白い本ですので、ぜひ。




『グラビア美少女の時代』
構成として、面白い本である。
本の中で、美少女のグラビアが占める割合が非常に高い。それでいて、載せられた文章はかっちりした論考である。軽いエッセイのようなものでなくて、十分に読み応えのある文章群である。写真家細野晋司のグラビア写真200点も併せて読むと、アイドルとは何か、何か示唆を得られた気になる。


さて、以前ハロプロのメンバーの写真集を買っていた頃、ハロプロショップで売っている無背景の生写真と比べていろいろ考え事をした。


ハロプロ写真集について考える http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080828
夢幻の生写真 http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080906


ここで問題にしたのは、アイドルに没入するためには、アイドルとファンの1対1関係の世界を作らなければならないということで、そこに写真家の作家性なるものがせり出してくると邪魔になるのではないかということだ。AVは男優が映ると萎えるから、イメージビデオの方が興奮する、というのと同じようなことである。


さて、細野の写真に関する分析が様々になされるが、これらがとても参考になる。
美術ライターの山内宏泰は、「もっとも「写真的なる表現」」という論考の中で、「グラビア写真は「見る人」至上主義」であるとし、「見る側が被写体との世界に没頭できるよう写真を仕上げていく」ことが「グラビア写真の目指すところ」であると述べる。だから「撮影する側の思い入れや主張、意図は、ここでは邪魔になるだけ」だ。この主張は、自分がハロプロの写真集の一部に感じた違和感と同じことを述べている。


撮る側が自分の個性を出すほどに、写真は作品としての色合いを強くしていく。と、鑑賞される環境によってはそれが「アート」という名で呼ばれたりする。


これとは逆に、「できるだけ見る側の立場に寄り添う」ことがよきグラビア写真の条件であると山内はいう。だからここでは、よきグラビア写真と「アート」的なものは対比的関係として見られている。
これに対して、すぐ後に収録されているギャラリスト福川芳郎の「グラビア写真からアートが生まれるのか」が面白い。山内の文章では、「アート」とは何かということが保留にされているが、「アート」という語は一般的には送り手の個性、主張を自由に表現したもの、というイメージがあるかもしれない。しかし福川は、アートというのはコミュニケーションであって、自由に発想すればそれがアートになるのではなく、送り手のメッセージを受容する受け手があって初めてアートが成立すると述べる。しかしいずれにせよ、アートには送り手のメッセージが込められる。これは「撮影する側の思い入れや主張、意図は、ここでは邪魔になるだけ」というグラビア写真にはそぐわないように思える。


…ほとんどのグラビア写真を撮る写真家は、アートを目指すことはあきらめて、出版社や被写体そして読者の望む写真を撮ることに専心している。それで十分ではないかと思う人も多いかもしれない。果たしてそうだろうか。


自分もそれで十分ではないかと思うのだが。福山は続ける。



…ネット上にアイドルのヴィジュアル情報はあふれかえっている。……グラビア写真もこれまでのように美少女のヴィジュアル情報を伝えるだけでは、相対的に存在価値が低くなっていく一方だ。そこに写真家が撮ることによって生まれる付加価値、アーティストならではのアイデアやコンセプト、メッセージが加わる、つまりアート性を帯びることで価値を高めることができる。


ふーん、という感じで読み進める。たとえばアイドルファンにとっては、なんだかどうでもいい話である。
では、この本に収録されているグラビアを撮影した細野の写真はどう評価されるのかというと、「細野のグラビア写真からはあまり男目線のエロスを感じない」とか、「ニュートラルな眼差しを持った写真家」と書かれている。そして「細野が目指しているグラビア写真は、アート性の高いファッション写真とかなり近い地平を志向していると言えるだろう」とも書く。


私は、一読した時にこの山内と福山の文章は矛盾しているような気がした。だがだんだん、もしかすると、両方とも合っているのではないかという気がしてきた。
つまり、グラビア写真は、受け手に没頭させるために送り手の意図を感じとらせないようにしなければならない。その点では作家性なるものをゼロにしなければならないとも言える。一方アートというものは、送り手のメッセージと、それを受け取れる受け手のコミュニケーションによって成り立つ。私が思うのは、そのメッセージが時代を反映したものであれば、作家性なるものが希薄に思えても問題はないのではないかということだ。現に福山は細野を「男目線のエロスを感じない」とか「ニュートラル」と評するわけだから、その時代を象徴する素材(旬の女優やアイドル)の魅力を伝えるものであれば、それはアートと呼べる可能性がある。
ここで問題として提起したいのは、秋元康はアーティストなのかどうか問題である。秋元の作る歌詞には、ある特徴があるが、しかしそれは美的ではなく、極めて庶民的というか大衆的である。つまり、それは商業主義的な観点から緻密に作られていると言えるが、作家そのものの主張を基本的には感じにくいものである。だが見方を変えれば、秋元は時代の欲望する像を忠実に写し取ることができる稀有の才能を持っているとも言える。


アイドルはそれ自体が作品のようなものである。しかし一方で、アイドルはなんらかのメディアに乗ることではじめてアイドル足りうる。その点では、メディアの人間には、自らの思想信念に基づいてアイドルをどう料理するかよりも、元々いい素材であるところのアイドルの魅力をいかに引き出すかという技量を求めたい。ファンとしてはそう思う。そして細野も、そのような形で、時代の、大衆の欲望する像をうまく写し取ることのできている写真家なのではないかと思う。それは一方では作家性を全く感じないものであるかもしれないが、一方で時代(を象徴する存在の素材そのものの魅力)をよく映すという特徴がある。大げさに言えば、自らを無にすることで奥義を体得する武芸の達人のような境地か。それを「アート」と呼ぶかどうかは、アートをどう定義するかによるだろう。



さて、ここで思うのは、大衆の欲望するものをもっともうまく写し取れた人間が評価されるとすれば、それは別に必ずしも著名な人間である必要はなく、偶然誰かがそうなってしまう可能性がある、そんな時代だということで。「踊ってみた」でも、「歌ってみた」でも、素人の投稿した何かの動画でも、pixivでもなんでもいいのだけれど、一般人が主にネットを利用して全世界に表現を発信することが可能になったとき、大ヒットし、ブレークする表現は、もはや一定の確率で、ある意味では偶然に出てくるものと考えた方がよい(そんなことが「イメージの進行形」でも書いてなかったっけ)。
いつのころからか、テレビのサッカー中継に松木安太郎がなくてはならない存在のようになってしまった。アイドルファンの中で、有名なアイドルファンの存在感が、いつしか大きくなってきたりもした。我々は、自分たちの好きの気持ちを収斂させる象徴的存在を必要としているのだ。