『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』

AKBのドキュメンタリー映画を見てきた。前作は見なかったのだが、今作は各所から良い評判を聞いていたので、見ておかなくてはと思っていた。
前提条件として、自分はハロプロ文化に10年以上浸ってきた身であり、AKBのファンではない。そしてどちらかといえばAKBに対するアレルギーを抱えてきた人間である。ハロプロとAKBの差異に関しては様々な議論があるが、やはり思想・主義の違いのようなものは漠然とある気はしている。また生理的な意味で言えば、どうしてもイラストが嫌で読めないマンガというものがあるように、言葉より前に雰囲気として受け付けなかった、というのが自分のAKBに対する印象であった。(ところで自分はハロプロ文化に浸りながらも、Berryz工房のライブに一度も行ったことがない。これもまた同様の受け付けなさ、によるものである。だいぶ緩和されてきたけれども。)
自分が乗れないけど、世間ですごいとされているものに対する態度をどうとるかは迷うものだ。ハロプロ文化の内部からAKBを見るときに、ジェラシーを含んだ視線を排することは割と難しいように思う。たとえば、(もっとハロプロの方にも有能なスタッフがいれば…)と自分は思うことがある。一方で、一昨年AKBのじゃんけん大会を見に行って思ったのは、うまさである。アイドルをある人間たちの身体のみならず、現象の総体として見た時に、AKBは圧倒的にうまい。それはもう手放しで素直に感心せざるを得ない。そのうまさを今一度感じるために、映画館に足を運んだ。


さて、詳細な批評に関しては宇多丸さんの2/18 ザ・シネマハスラー「DOCUMENTARY of AKB48」が面白いので聞いていただくとして(http://www.tbsradio.jp/utamaru/2012/02/218_documentary_of_akb48.html)自分は印象に残ったことをちょろっと述べたい。



●モチベーションの問題
昨年末、週刊メルマガクリルタイにて「労働者としてのアイドル」というコラムを発表したが、本映画を見て感じたのは、やはり労働者としてのアイドル、という側面だった。
なぜアイドルになりたいか、という問題は自分もずっと関心をもってきたテーマである。大島優子は「自分のステップアップの場」と位置づけていたが、歌で人を笑顔に出来るのはすごいことだと感じ、「AKBで日本を元気に出来たら…」と話す。峯岸みなみは、被災地でのライブの際にちっちゃい女の子がお花を持って自分に差し出してくれたことを振り返り、「(アイドルとしての活動は)自分のためもあるけど、誰かのためになってたんだって気づきました」と話す。
これらを見て感じるのは、いまAKBのメンバーには、よい動機付けが出来ているということだ。自分の夢を叶えるためのアイドル活動が、一般の人たちに希望を与えているということ。それは労働への大きな動機付けになるだろう。多くの人間は、自分のためにだけ生きるということが、実は難しいように思う。なぜなら、自分の行動が正しいと信じるための根拠が自分の信念だけだと、多くの人間は不安になるからだ。だから、他人の役に立っているということが、その活動を正当化してくれることは非常に重要だ(ほとんどの企業や就活サイトには、その仕事がいかに社会的に有用であるかがこれでもかと書かれているだろう)。AKBの活動は、メンバーにとってはもはや社会的な使命にも感じられているかもしれない。
AKBの主力メンバーがほとんど辞めないのは、いろいろな要因があるにせよ、こうした形で仕事への動機付けがうまく働いていることも一因であろうと思う。自分が社会に対して大きな影響力を持っていること。それは大きなプレッシャーにもなりうるが、一方で仕事の大きな充実感をもたらすだろう。



●自作自演の(?)極限状況
選抜総選挙の緊張感。順位を発表するごとに泣いていくメンバー。様々な複雑な感情が去来する中でファンに向かって挨拶するメンバー。舞台裏に戻り、仲間とあるいは一人で、感慨に浸るメンバー。
西武ドームでのライブの舞台裏の強烈な映像。大島優子が言うようにそこは「戦争」だ。大規模なステージのどこから出て行くのか、次の曲は何か…、頭も体も極限状況の中、過呼吸、酸欠、疲労で次々に倒れていくメンバー、眼がうつろになるメンバー。この映像の強さを否定することは出来ない。頑張っている彼女たちを、スクリーンの前で否応なしに応援させられる気分になるものだ。
少し冷めた見方をしてみよう。宗教的な悟りを開くための苦行というものがあって、断食や不眠を連日続けたとする。そして悟りが開けたとして、それって、ただ体を極限状況に追い込んだことで、精神がおかしくなったんじゃないの?という見方があるかもしれない。あるいは自己啓発セミナーに行って、閉鎖的な環境で始めは今までの自分の人格を否定されたようなことをスタッフに言われながら、最後には課題をクリアしてみんなに拍手され、感動のうちに「自分は変われた」という実感を得たとする。こういうのってありなのか無しなのか。つまり、物理的な条件を整備さえすれば、感情のコントロールなんてできてしまうという唯物的な思考がそこには無いか、そしてそれを手放しに肯定できないという感覚が自分にはあるのだ。たとえば、いま、涙にどれだけの価値があるだろうと思う自分がいる。テレビでもネット上でも「泣ける」ネタがあふれ、簡単に人は泣く。AKBの総選挙でも、メンバーは泣くし、ファンも泣く。涙というのは随分お手軽になったな、という気もするし、いや、そうではなくて「アイドルーファン」関係はそのくらい重いのだということに共感したい自分もいる。
ぼくは上記の全ての例に否定的なわけではない。それらは「本当の」感動、悟りではないなどと言い出したいわけでもない。ただ、なんとなく疑念を抱いてから、しかしそれを否定しようも無いということを確認するのみだ。AKBで言うならば、運営もメンバーもファンも、とりあえず「win-win-win」の関係に収まっているように見えるのだから。もちろんここでメンバーの「やりがいの搾取」というような議論を始めることもできる。夢に向かって頑張っているのだから、どんなにきついことでもできるだろう、夢のためなら何だってやれ、というようにいたいけなアイドルを追い込んでいると。しかし『労働讃歌』を歌う「ももいろクローバー」の姿のように、アイドルはもうそうした次元は超越している気すらする。様々な要素が再帰的に影響しあってアイドル現象が成り立つ際に、「大人→少女」の一方的な力の行使という構図だけを持ち出すことに取り立てて意味があるとは思えない。(ジュニアアイドルの着エロDVDとかなら話はまた違ってくるかもしれないけど。)
それから、確認しておかなければならないのは、唯物的な思考のもとで(ファンやアイドルの)感情をコントロールすると言っても、制御不能な部分が出てくるからこそアイドルは面白いのであって、最終的には何だって予測不能なのだ。過呼吸を起こす前田敦子がどう振舞うかは、もちろん誰にも予測がつかないし、それが(残酷ながらも)最高に面白いのだ。だから、アイドルにおいては「何かが起こりそうな舞台を用意しておく」ことが重要と言える。そしてAKBを仕掛けている人々は、それがめっぽううまい、ということなのだと思う。
(メンバーの未熟さや「天然ボケ」は、「何かが起こりそうな舞台」の代わりになるだろうが、それに依存するとアイドル現象はうまく存続できないのではないかという気がしている。「未熟さ」に依存した場合、メンバーが成熟したらそのアイドルは終わりになる。AKBの場合、ベテランのメンバーは成熟していると言ってよいと思うが、それでもアイドルとして生き長らえているのは、メンバーに過度に依存せずに、「何かが起こりそうな舞台」(「システム」と言ってもいい)を運営が用意できていることが大きいのではないか。)



●将来への道筋
映画を見ると、理想の上司ランキングに高橋みなみがランクインするのも遠い話ではないと思ってしまう。西武ドーム初日の失敗を受けて、メンバーに気合入れをする高橋、自分も体力的に限界にきているのに、ステージ上で前田敦子の呼吸を整える高橋。さながらNHKプロフェッショナル 仕事の流儀」を見ているかのようだ。宮澤佐江西武ドームの経験を踏まえて「いつか演出家に」という夢を語るように、現状のアイドル活動と、彼女たちの将来に断絶は感じられない。現状の動機付けに成功し、将来像も結べているなら、何の文句があるだろうか。



ぼくがAKBファンだったら、もっと映画を見て傷つき悩んだだろうと思う。傷つきはしなかったが、ぼくは見ていて胸糞が悪くなった。自分が見たい映画は、胸糞が悪くなる映画なのだから、この映画はとてもよかった。それは、現状に安住せずに、反省や再考を促してくれるということなのだ。
ファンはアイドルを傷つけて生きている。だけれどもアイドルの力にもなっている。あるいは、顧客はサービス業に従事する労働者を傷つけて生きているが、労働者にやりがいも提供している。抽象化すれば、人間は傷つけ合いながら生きていくが、お互いにいいこともある。どちらかを強調しすぎてはいけないし、どちらかから目をそらしてもいけない、と思う。