「現場」の「身体」――ももいろクローバーのリアル

渋谷のTSUTAYAで、STUDIOVOICEフリーペーパー「特集☆ももいろクローバー」をもらってきた(http://www.studiovoice.jp/?p=6215)。ももいろクローバーは確かに、いま熱い。その圧倒的なライブパフォーマンスと、精力的なライブ・イベント活動で、狭いアイドル界隈を超えた認知度を獲得しつつあるといってよいだろう。
QJPerfume特集でも有名な)ライターのさやわか氏が中心的に携わった本誌、最も読み応えがあったのは「ももクロってなに?」と題された1000字にも満たない文章である。ここに全て引用したい気持ちを抑え、核の部分だけを紹介したい。
アイドルが「虚構として振る舞うことが強要される時」、「どうしても筋書き通りに演じられない瞬間がある」。だから(百田)「夏菜子のえびぞりジャンプは美しい」。さやわか氏は、演劇性の高い「アイドル」という枠の中で、圧倒的なパフォーマンスによって「身体」がせり出す、それが「ライブ」であると論じている、と私は読んだ。さやわか氏は「振り付けと身体、虚構と現実の綯い交ぜを観客が同時に信じることでしか」ライブは完成しないとする。
以上は、私がアイドルの「現場」へ何を見に行っているのか、という過去の経験・感覚とも合致する。アイドルファンが奇異の目で見られるのは、「同じ」ライブ・イベントを何度も、どこへでも見に行くことに対してであったりもするが、アイドルファンにとって個々の現場はもちろん「同じ」ではない。それぞれの現場で、アイドルがおおまかにどう振舞うかというシナリオ・セットリスト・振り付け・歌詞が分かっているからこそ、逆にその演じるレールからの逸脱、身体性のせり出し(ハプニング)にも敏感になれる。その中でも、ももいろクローバーが、その「全力」のパフォーマンスによってアイドルファンを「現場」に惹きつけているということに、私は納得できる。
ここで思い出すのは、ユリイカ本年2月号の佐々木敦氏による論考「人間=性の限界」である。この中で佐々木氏は、東京デスロックという劇団の演劇における「身体的な負荷によって表出する身体の現前性」について論じる。たとえば、ひたすら役者に激しく踊らせる演劇の中で、役者は「ほんとうに息が切れて」しまう。「予め用意された虚構のフレームの中で、(中略)「するつもりでなくてもそうして(そうなって)しまう」という枠外の事態としての「息切れ」が現出する」。それが「リアル」なのだという。
この「身体的な負荷によって表出する身体の現前性」が、ももいろクローバーにおいても当てはまるがゆえに、いま彼女たちのライブパフォーマンスに注目が集まっていると言っても過言ではないだろう。インタビューにおいて、「三回公演あっても一公演目で120%出せるくらいやる」とリーダーの百田は答えるが、これこそ「ももクロらしさ」としてファンに伝わっていることではないかと思う。ライブレポの終盤、さやわか氏は「全力ゆえに、彼女たちがどうしても世界からはみ出してしまう生の瞬間を、僕らは目撃しようとしている」と記しているが、これは「アイドル」全般における大きな魅力の一つでもある。(その魅力をもってアイドルだと見なす循環構造もあるかもしれない。だから我々はしばしばスポーツのアスリートをアイドル視するし、逆に、やる気のない存在をアイドル視することはあまりできそうにないのである。)
もっと抽象化してみるなら、アイドルはネガティブな意味での「決められたもの」(宿命)を自らの身体の躍動によってポジティブな意味合い(運命・使命)へと更新していく存在であると言えるかもしれない。彼女たちはインタビューで、「アイドルのイメージを壊したい」とか「アイドルの定義を変えればいい」と言う。過去にも言語にも縛られず、これからも彼女たちはそのパフォーマンスにおいて、アイドルの意味を更新し続けるだろう。そして彼女たちが示すポジティブな可能性は、「現場」を共有する我々にもいつのまにか憑依しているのである。