「会って、話せて、デートができるアイドルついに始動!」

「AKBN 0」というアイドルが始動。代々木公園屋外ステージにて無料イベント&握手会ということで、ふらりと行く。イベント名は、「AKBN 0 スタートイベント 10年後この日は伝説になってます!? いきなりアイドルの試練がやってきた!!!」。
自己紹介して、3曲踊って、オークションで私物を落札した人に贈呈式をやって、試練の発表をして、握手会という流れ。
どんだけ来るかと思ったが、最終的に200〜300人くらいは客がいたのではないかと思う。最終オーディション動画とかを前もって見てくればもっと楽しめたのかもしれないが、合格者の顔も名前も何も分からない状態でイベントに臨んだ。
会場のファンはAKB界隈が多いような雰囲気を感じた、勝手な想像だけど。
司会の女性の挨拶の後、メンバー登場。そして自己紹介。ここで初めて知るが、メンバーにはミドルネームがついている。「佐藤キャメロンかすみ」のように。おのおのが個性を出して自己紹介、もっと緊張しているかと思ったが、さすがにお披露目が武道館とかじゃないから(これは久住小春のことを想像して書いているが)、みんなそれなりにしゃべれるし気合も入っている。後で2期生最終オーディション進出者の「品評会」も行われたが、「俺は一番右〜!」「俺は○○〜」と、さながら人身売買のよう。公式ページにも「実際にご覧になって品定めしてください。」とある。年齢に関しても「12才!12才!」とコールが起きたり、「やらせろー!」と叫ぶファンなど、新米アイドルさんたちが引かないか心配になる。
「AKBN 0」は売り上げ至上主義を謳っており、最終的にオーディション合格を決定した私物オークションの価格で立ち位置が決まっている。これからも売り上げによってポジションが変わっていくという。そして、ファンのことをファンとは呼ばず、「クライアントさま」と呼ぶという宣言がなされる。
歌披露前、円陣を組んで、「クライアントさまは神様!」と叫ぶメンバー。なるほどねえ、こんな感じですか。
披露したのは、「MajiでKoiする5秒前」アイドリングヴァージョン、AKB48の「会いたかった」、モーニング娘。の「愛の種」。
曲披露の後、オークションで私物を落札し、さらに直接手渡しを希望した3名のTC(トップクライアントさま)への贈呈式が行われる。おそらく実名を何度も呼ばれ、ステージ上で顔を晒され、もらった後の感想も聞かれ、という試練をものともしない勇者たちに感心する。もうあそこまで行ったら、いいんじゃないかと思う。一方でトップクライアントという鎖につながれた彼らは、今度どこまで彼女たちを支えることができるのだろうかと、意地悪い興味も湧く。
それにしても、贈られたものがそれぞれ、ファンの欲望をなぞるようで、生々しいものではあった。もちろんそれは彼女たちの選択による出品物なのであろうが、それが見事に成人男性の欲望をなぞっているようなものなのだ。これはある意味、その時点で彼女たちのアイドルとしての資質が問われたのだという見方もできるのだが。ひとつは、「(一緒に寝ていた)ぬいぐるみ」、ひとつは「(ステージ上でも実際に吹いてみせた)ふえ」、ひとつは「(「おにいちゃん、起きて」のメンバーの声入りの)目覚まし時計」。特に笛に関しては、ステージ上のヲタに対して、客席から「なめろー!」の大合唱というカオス状態。ステージ上はといえば、司会の女性が「〜さまのものですので、どのように使っていただいても結構です」と煽るという、このアイドルの方向性をはっきり示すイベント展開となったのだった。
さて、イベント終了と思いきや、司会の女性にスタッフから封筒が渡される。司会の女性も聞いてない、という体で、アイドルへの「試練」が発表される。それは、15日のイベントで、5万円を売り上げなければアイドル失格というもの。突如告げられた試練に、ステージ上のメンバーは呆然としたり、泣き出してしまったり。その後、15日のイベントに臨むメンバーの決意表明に、ファンも頑張れの声援を送る。「一緒にデートしてくれた人には、手作りのお菓子を用意します!」とか、必死。その後の握手会でも、あるメンバーに「15日来てくださいね!」と言われ「はい…」と答えてしまう(コミケ当日だよ…)。


さて、こうした一連のイベント進行は、もはや(今で言えば主にAKBの)パロディとして受け取ることこそ自然な態度だと思われる。おそらく会場にいた多くのアイドルファンもそう感じたことだろう。一方で、彼女たちの生身の身体から発せられる涙や言葉、態度の強度は、我々を感情移入させるには十分なものでもある。分かっていても、彼女たちに感情移入はしてしまう。それは、「彼女たちの涙に嘘はない」と思ってしまうからだ。いきなり試練を告げられた何も知らない(田舎者の)ど素人アイドルに、嘘はないと思わせる(本当も嘘もないのだと分かってはいても)。仕掛けに対するメタ的な視点と、彼女たちに対するベタな没入。現場の臨場感が、ベタとメタの両立を容易にする。
何度も書いてきたことだが、この「ガチ」の演出もまた一つの虚構でしかない。そのことに、会場全体は自覚的であったように思う。「モーニング娘。」もAKB48も経験している「リアリティ番組」的手法をまねているだけだ。ただアイドル自身のみが、その「ガチ」のただなかにいた。ファンはどつぼにはまらなければ、いつでもそのガチを放り出すことができる。仕掛けた側も、金がかかっていないのだから、いつでもメンバーをクビにできる。
ぼくが興味深く思ったのは、こうしたアイドルの売り方にファンは食傷気味になって、このようにパロディ的に受容されるようになった先はどうなるのだろうということだ。簡単な予想としては、「リアル」をめぐってアイドルの消費のされ方は何年か周期で循環するというものだ。モーニング娘。が飽きられ、AKBが出たように、10年程度の周期でアイドルの受容形態が変わる…、これは全く根拠のない仮説だが。
15日には、1万円でデートができるチケットが売られ、渋谷の街でメンバーとファンが30分のデートを楽しむことになる。ところでデートができるアイドルと言えば、「制服向上委員会」というアイドル(現存する)は以前メンバーとのデート権のようなものを抽選会かなにかの景品にしていた。だから前例はあるのだが、とはいえこれは非難を浴びることだろう。端的に人を商品にする、というアイドルの最も汚いと思われる部分の象徴的事例に思われるからだ。しかし、実際にはその光景は、成人男性と少女にスタッフがついていくといういささか滑稽な図になるだろう。手作りのお菓子を食べさせる時も、常にスタッフの監視の下で。その哀しい光景をただ非難のまなざしではなく、人間の哀しさの普遍的な表現としてぼくは見たい、いやこれは格好つけすぎなのだが。


(ここからはだいぶ勢いで書くので、いろいろ不備があることを承知の上で、でも書く。)
ということで、ぼくはこうした「リアリティ番組」的手法はまったく気に食わないにせよ、それをパロディにしていることで、このアイドルを否定しきることが出来ない。もちろん「デート券」なるものを売ることになんらかの倫理的な意味での非難を浴びせることは容易なのだが、そうしたくない自分がいるのだ。それはなぜかと考えた時に、先ほど「アイドル自身のみがその「ガチ」のただなかにいた」と書いたが、それが決定的に彼女たちを傷つけてしまうと言い切る自信が自分にないということだ。確かに彼女たちの中には遠方から東京まではるばるやってきたメンバーもいる。けれども、同時に彼女たちはいつでも離脱可能なのではないか、とも思ってしまう。アイドルになりたい女の子が青春の束の間、アイドルになれて、そしてそれを思い出話にする。それのどこが悪いのか、と思うことは楽観的すぎるだろうか。元アイドルということが、彼女たちの一生に渡って消ええないスティグマになりうるだろうか?なぜいま女の子はアイドルになりたいのか?それは単なる若気の至りであって、正常な判断能力を欠いているからという、ただそれだけのことなのか?
また、アイドル自体の主観の問題を離れて、ファンとアイドルの関係の構図そのものが倫理的に問題であると問うことは十分意味のあることだとは思っているが、それが「生理的に気持ち悪い」以上のどのような意味を持つか、自分の中でうまく言語化できない。よってこれらのアイドルをすぐに否定はできない。(ところでもし自分に娘がいて、その娘がファンとデートするようなアイドルになることを許容するかと言ったらためらわざるをえない。けれども、それを根拠として、一般的にこうしたアイドルは否定すべきだという結論にはならない。)


「AKBN 0」のメンバーは、かわいらしいとは言え、どこにでもいそうな女の子だった。帰りに寄ったモスバーガーの店員さんの方がかわいいんじゃないかと思うくらい。アイドルには、誰でもなりうる。それはむしろ、ファンにとって、アイドルを自分と同一視することを容易にするだろう。自分と同じ地平にいるアイドルが、高い目標に向かって、厳しい道のりを一歩一歩上がっていくビルドゥンクスロマンとしての消費。アイドルは自分たちと同じ存在でありながら、なおかつ非現実的な理想の世界にも連れて行ってくれる。ファンは、自分と同じ、でも自分と違う両義的存在としてのアイドルを愛する。
ぼくがアイドルを人間を商品化するものとして否定する言説に単純に首肯できないのは、多くの労働者自身もほとんど商品ということでは変わらないのではないか、という思いもあるからだ。特に人(顧客)と接することに多くの時間を取られ、またそこにおいて感情のコントロールを余儀なくされる「感情労働」に従事している者は、自らの人間性そのものを売っているという点で、アイドルと遠い距離にはない。だから、ぼくは「AKBN 0」を単純に否定することができない。もし「AKBN 0」を否定したい人がいるなら、例えばその生理的な気持ち悪さの根底にどのような倫理的な問題があるのかをぜひ言語化してみてほしい(いやもちろん気持ち悪いと言ってただ否定するのも当然個人の自由だ)。ぼくは人間の比喩としてアイドルを見るのが好きなので、アイドルについて考えることで、「人間とは」という問いの答えのヒントが少しは得られるのではないかと思っている。
…と、ここまで書いてなんだが、ぼくは「AKBN 0」はそんなに成功しないだろうと考えている。でもその行く末は気になる。どうやって失敗するかに興味がある。売り上げ至上主義によってメンバーが疲弊してしまうか、ファンが先に疲弊するか。ところでアイドルの売り方が実力主義か、そうでないかということも興味深い問題で、現代日本人がどちらを好むか、ということに関心もある。ここで言いたいのは、AKBは完全に実力(人気)主義を謳っていて、逆にハロプロは基本的にノルマや人気投票的なものをしないのだが、どちらにも長所・短所があるだろうということだ。


だいぶ取り留めのない話を続けてしまった。そろそろ終わろうと思う。「佐藤キャメロンかすみ」さんが、℃-uteなっきぃに似ているように思ったので、握手会で「困った顔」をしてもらうといういつものプレイをしてもらったのだった。そしたら、なっきぃがやる感じでやってくれたので、よかった。もし暇があって無料のイベがあったら、…そしてまだ「かすみん」がアイドルとして生き残っていたら、イベントに行ってあげたいと思う。