℃-ute「劇団ゲキハロ第2回公演 寝る子はキュート」2回目

http://d.hatena.ne.jp/lovelikelie/20070621
基本的に書きたいこと書かれた。結構かぶること書くかもしれません。


まず、アイドルの舞台の特異性というものを確認しておきたいのだが。「LOVEセンチュリー」以降、毎年のように行われた娘。ミュー、そして後藤や松浦や安倍のミュージカル。そして今回の℃-uteの舞台。ハローの舞台の制約ってなにか、って、結構昔にも書いた。3年前。http://www.geocities.jp/moaning_moron/gettou.html
『娘。ミュージカルは今年で4度目になる。それを語る上でまず留意すべきことを確認しておきたい。
①娘。のメンバーは全員出る。(中略)
②従って、始めに脚本ありきではない。全員がなるべく均等に出演できるようなストーリーとなる。
③ミニライブはやることになっているので、ストーリーの流れにうまく乗せなくてはならない。
④客層はヲタクが大半を占め、それについで親子連れが多いとあらかじめ予想されている。どちらも芸術としてのミュージカルをあまり鑑賞したことのない層であり、そうした客層を満足させるような内容が目指される。

上記のような制約の下で作られたミュージカルは、少なくとも他のミュージカルと同様の芸術作品である、とは到底言いがたい。……』


って、娘。ミューに関して書きました。まあ客層に関してはヲタばかりになってしまったけれども、他の制約は変わっていない。こうした制約の中でいかに仕上げていくかが脚本・演出の腕の見せ所だ。アイドル先にありきの舞台、それはそれとして「本格的」舞台とは異なる芸術表現の可能性を秘めてるんではないのか。今回の℃-uteの舞台でそれを存分に感じることができる、多分。
アイドル舞台特有の表現とは何か。アイドルは虚実入り混じった存在である。それゆえに、舞台(虚構)×客席(現実)という二項の境界を曖昧にし、架橋し、舞台の中に引き込んだり、またそれを現実の方に放り投げたり、といった越境を容易にするのではないかということ、これだと思うのである。もちろんこんなことは他の舞台芸術においても成り立つことではあるはずだし、他の舞台芸術に全く詳しくない僕は的外れのことを言っている可能性も大いにある。
だけれども、例えば「リボンの騎士」と今回の「寝る子は℃-ute」を比較したときに、基本的に「本格的舞台」として鑑賞した「リボンの騎士」と、アイドルの舞台として見る℃-uteの舞台は、明らかに見方が異なる気がするのだ、「複眼的視点」が持てるかどうかという点において。
リボンの騎士」は、我々が「安全な」客席から見られる舞台だった。id:lovelikelieさんが言ってたけども「客席のどこから見ても基本的には変わらない」。それに対して、℃-uteの舞台はその距離が大きくものを言うのだ。それは、アイドルの舞台だから、距離が近い方がいいに決まっている、という単純なことでもあり、またそれとは別のことなのか同じことの別な表現なのかわからないが、客席から舞台への越境の可能性という問題でもある気がする。僕らはアイドルに対して常に複眼的な視点を持っている。大きく二つに分ければ、「神」か「人間」か。「記号」か「身体」か。舞台においても、我々のその視点は保たれる。「神格化されたアイドル」として見るか、「少女(人間)」として見るか。そうした二項が混在することで、我々は知らず知らずのうちに「虚構×現実」の境界を飛び越えてしまう、そんな仕掛けがなされているように思う。
抽象論ばかりではしょうがない。実際の舞台に沿って話を進めてみる。少し先ほどの制約の話をしつこく再確認しておくが、アイドル舞台は、彼女らの演技力への考慮も少なからずあるだろうが、彼女たちが無理せず演じられる役柄が設定されるのが普通である。そして、最後のミニライブに自然につなげるためには、アイドルを目指すような設定を無理にでも組み込まなければならない。これは舞台を作るにあたって極めて強い縛りである。しかし、それを逆手にとって、舞台という虚構をアイドル世界のメタファーとして描き、さらに舞台の最後で舞台という虚構とアイドルという現実を合致させるという表現の可能性があるということだ。もちろん「アイドル」もひとつの虚構なのだから、舞台を相対化したあとで、アイドルを相対化し…というメタゲームに巻き込まれた観客であるヲタは、「無事」には帰れない。
舞台前半では、オジさん3人組がヲタのメタファーであるということがそこここで示される。宮武は、「かわいいこにビシバシ言われるのはしびれる」とか、まいまいやら千聖に叩かれて「楽しい!」と狂喜してヲタを代弁し、長谷川(長さん)は舞美をじっと見つめて、宮武に「年の差いくつあると思ってんだ」とロリコンであるような見せ方がされる。若浩は滑稽な動きや、「来夏ちゃ〜ん」とヲタのような声を出して舞美から「キモイなー!」と言われる。僕らは舞台前半で十分に舞台上の3人に同一化し、また対象化してネタとして笑いを誘われる。
一方で、管理人良平と愛理・栞菜のセリフも思わせぶりだ。「今から当たり前のこと言うぞ」「仕事は遊びじゃない」「仕事は、愛だ」という良平。「仕事は愛だ」って、「アイドルの仕事内容は、愛を与えることです」って解釈したいです。で、「仕事は遊びじゃない」のだから、「愛」は「遊び=プライベート(と解釈しましょうか)」の方では無い。それが「当たり前のこと」である、という良平。ところで、良平は管理人である。アイドルの管理者は、「事務所」です。ここでは、事務所が「恋愛を容認しないアイドル観」を持っている状態が示されています。愛理と栞菜は、おまわりさんとの会話の中での、「仕事が終わったら、自分の体だろう」という言葉にもポジティブには反応しない。アイドルに、自分の体なんて無いと言うかのように。
来夏(舞美)はと言うと、ルールを厳しく求め、大人なしでもやれるんだということを証明するべく、5人で別荘にやってくる。甘いものは一日2杯まで(だっけか?)と厳しい自己管理を他のメンバーにも求め、「大人に頼るな」と言う。
このように、舞台前半で「オジさん3人組=ヲタ」、「℃-uteメンバー=管理を厳しく強いられるアイドル」という比喩の関係が明らかになる。来夏の表情は一様に険しい。笑顔がない。それがすべてを象徴している。



幽霊「夏美」の登場で事態が一変する。
http://d.hatena.ne.jp/lovelikelie/20070621
『「ロリコン」ではなく「純愛」に昇華していくのだ。そこにいるのは同じ「矢島舞美」なんだけど(わざと舞台だっていう事を無視して)、「愛情の対象」としての意味がまるっきり変わってくる。長さんは一貫して「矢島舞美」を「初恋の人」として見ているんだけど、前半は受け手(観客)がそれを知らないから、ロリコンとして、「性の対象としてみてるんでしょ?」的な読み取り方をしてしまう。前半は舞美さん以外でもそういうボケが結構あって、観客の苦笑い気味のリアクションが妙にリアルだったのはそういう面もあったんじゃない? で、わざわざ一回舞美さんを殺して、「幽霊なんです」「違う人物なんですよ」っていうエクスキューズをつけてもう一回「矢島舞美」が出てくると、今度は長さんのそれが「純愛」なんだという事になって、受け手は安心して泣く事ができまっせと。』
安心して泣けるかどうかは置くとして。舞台上では「ロリコン」が「純愛」であることが分かったわけだが、その対象は違う役柄でありながら同じ人間(矢島)なのである。僕らは否応なく問いを発するはずだ。自分はロリコンなのか?それとも、「本当に」愛しているのか?
夏美は黒い浴衣を着ていたがために「スズメバチ」に刺されて死ぬ。「アイドル」の「ルール」に縛られていたがために、「ストーカー」に「マスコミ」に、殺される。長さんは、「その浴衣脱がなきゃって言ったのに」と悔やむが、「恥ずかしいから無理だった」、アイドル幻想を脱ぎ捨てられなかったと夏美は言う。「僕が見なきゃよかったんだ、目をつぶっていれば…」と長さんは後悔する。アイドルを人間扱いするかしないか、重大なテーマがここで交錯する。長さんは言う。「夏美ちゃん、僕、夏美ちゃんにおばさんになってほしかったよ!」
アイドルよ、人間であれ、ということですね。年をとれ、過度なアイドル幻想に縛られなくていいよ、僕らは「目をつぶる」から。多くの℃-uteヲタは村上愛のことを想うだろうし、僕は加護のことも辻のことも藤本のことも想う。一方で夏美も歌う。「とても心配だわ あなたが 若い子が好きだから」。アイドルヲタとして問われていること、非常に重いことです。
夏美は星になる。多すぎてどの星になったかわからない、ほど多くのアイドルが死んでいく現状。


戻ると、家が燃えていた。ボヤで済んだが、来夏(舞美)は怒る。「ずっと子ども扱いされる」と嘆く来夏。「管理人さん、しっかりしてよ!」…しかし、アイドルの死を経験した者である愛理は、「子ども扱いとか、どーでもいいじゃん」と言う。「生きててよかった」、だから「火事」なんてどーでもいいじゃないか。ここでの管理人の葛藤。「私は管理人として…」と苦悩するが、火事をごまかすことを決心する。宮武が言う。「みんなで必死こきゃ、絶対ごまかせる!」
アイドルの火事(火遊び?スキャンダル?)をごまかせ。アイドルとして生きられればそれでいいじゃないか。事務所のメタファーであるところの管理人はアイドル観の変更を余儀なくされる。…僕は一連の最近の事件で、事務所の人間も様々に葛藤したと思っているし、そこにビジネスとしてだけ割り切れていない人間臭さも垣間見れなくはないと思っている。今回の舞台での事務所への「アイドル観の転換の勧め」は面白い。人間になったアイドルの来夏の笑顔は、まぶしい。(もちろん、こうしたアイドル観がよりよいかどうかは要検討課題である。)



このように、時に舞台上の男達に共感し、またネタにし、時に舞台上のアイドルに萌え、またいとおしく想いながら、「現実」においてのヲタ―アイドル関係にも思いをはせて涙するという虚実入り混じる中で、自らのヲタとしての立ち位置までぐらつかされて考えて。で、そんなことも全部ひっくるめてたあいのない虚構かもしれなくて。
そんな複眼的視点を持つためにはヲタであらねばならない。だから、ヲタでなければ楽しめない、というのはネガティブな意味ではない。むしろそうした楽しみ方がありうる、というのは大いなる発見であるし、誇ってしまってもいいことだ。


最後に、愛理と栞菜は「東京に出てアイドルを目指す」と言い、5人に向かって、「組む?」と誘う。「組むー!!」
…「アイドルの死」を目の当たりにした後での「アイドルの誕生」。ここにおいて虚構の役柄が現実とリンクする。本当にいとおしいと思える。
管理人の言葉、「子どもたちは℃-uteです」「℃-uteたちは元気です」「子どもたちは元気です」は、虚構と現実を架橋する言葉でもあり、℃-uteを「少女」として人間扱いすることと、℃-uteを「アイドル℃-ute」として扱うことをバランスよく、という教訓ととりたいです。
サクラちらりの歌詞が胸に響く。
「いつまでもすぐそばであなたを見ていたい」
おばさんになっても…?んー、どうなんだろ。オジさんになっても…?んー、どうなんだろ。
「大好きだけど本気の恋だか測定しようもないし」。